平成28年6月8日

大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構
国立研究開発法人理化学研究所
Institute for Basic Science
J-PARCセンター

  

金属強磁性体SrRuO3を用いて電子状態の量子力学的な位相をスピンの運動として初めて観測

  

 【 本研究成果のポイント 】 

 ✣ J-PARC物質・生命科学実験施設に設置された高分解能チョッパー分光器HRCを用いて、金属強磁性体SrRuO3のスピン波の測定に成功した。
 ✣ スピン波のエネルギーの温度変化を正確に測定し、電子状態の量子力学的な位相に対する情報が得られた。
 ✣ 電子状態の量子力学的な位相をスピンの運動として観測できることを初めて示したものであり、磁性体におけるスピンの挙動の研究に新しい視点を与えるものである。

  

 【 概 要 】 

  大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構 (KEK) 物質構造科学研究所の伊藤晋一教授のグループは、国立研究開発法人理化学研究所創発物性科学研究センター (CEMS) の永長直人副センター長、十倉好紀センター長のグループ、および、Institute for Basic ScienceのJe-Geun Park教授のグループと共同で、茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設J-PARCの物質・生命科学実験施設 (MLF) に設置された高分解能チョッパー分光器HRC (以下、HRC) を用いて、次世代型太陽電池への応用などが期待される金属強磁性体※1SrRuO3スピン波※1のエネルギーを温度の関数として正確に測定することで、「電子状態の量子力学的な位相※2」に関する情報を得て、それが電子輸送現象である「ホール効果※3」と関連づけることができることを世界で初めて明らかにしました。この成果は、磁性体におけるスピンの挙動 (スピンダイナミクス) の研究に新しい視点を与えるものです。

 【 論文情報 】 


  雑誌名:Nature Communications

 【 背 景 】 

  近年、工学的に利用する目的で固体中の電子が持つ電荷とスピンの両方の性質を関係づける「スピントロニクス」の研究が盛んにすすめられていますが、その基礎となる現象において、「電子状態の量子力学的な位相」が重要な役割を果たすことが明らかになっています。そのような現象は、多くの場合、強磁性体の「異常ホール効果」などの電子輸送現象として観測されています。

  次世代型太陽電池への応用などが期待される金属強磁性体SrRuO3のホール効果の温度変化は、「電子状態の量子力学的な位相」によって影響されると考えられています (Z. Fang et al., Science 302 (2003) 92) 。そうであるならば、「電子状態の量子力学的な位相」はスピンの挙動 (スピンダイナミクス) に影響するはずなので、中性子非弾性散乱実験によってスピン波の状態を測定すれば分かります。SrRuO3は中性子非弾性散乱実験に適した物質なので、このような実験に多くの研究者が期待していました。

  しかし通常の中性子非弾性散乱実験には大型単結晶試料が必要なため、単結晶合成が難しいSrRuO3の実験はできませんでした。

  ところがJ-PARCのMLFにおいて、高分解能中性子非弾性散乱装置「HRC」を開発したことにより、単結晶試料を用意することなく中性子非弾性散乱実験 (中性子ブリルアン散乱実験※4ができるようになりました。これにより、長年研究者が期待していたデータが取れるようになりました。

 【 研究内容と成果 】 

  SrRuO3の粉末試料を用いて、HRCにより中性子ブリルアン散乱実験を行い、スピン波のエネルギーを温度の関数として正確に測定しました。その結果、スピン波のエネルギーは、温度に対して単調でない (非単調な) 変化をすることが明らかになりました。また、非単調な温度変化をするスピン波のエネルギーは、ホール効果と密接な関係があることを見いだしました。



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  図 HRCの中性子ブリルアン散乱実験で測定したSrRuO3のスピン波のエネルギーの温度変化 (a) 。SrRuO3のホール伝導度の測定値 (b) 。 (a) の実線は、 (b) を用いて表わされる理論曲線。 (a) の点線は磁化の温度変化。 (b) の実線は実験値を表現するためのもの。横軸は温度 (T) をキュリー点 (TC=165K) で割ったもの。縦棒は実験誤差。ホール効果の測定値 (b) から求められるスピン波のエネルギーの温度変化 ( (a) の実線) と磁化の温度変化 ( (a) の点線) が同じでないことが、磁化以外の内部磁場が働いていることを示している。

 【 本研究の意義、今後への期待 】 

  金属強磁性体における異常ホール効果は、電子状態の量子力学的な位相の効果で生じる現象です。このときにホール伝導度は、この位相によって表現されます。今回の実験結果は、電子状態の量子力学的な位相をスピンの運動として観測できることをはじめて示したものです。この成果は、磁性体におけるスピンの挙動 (スピンダイナミクス) の研究に新しい視点を与えるものであり、大きな学術的意義があると考えられます。

 【 お問い合せ先 】 

<研究内容に関すること>
  
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 教授 伊藤 晋一
Tel : 029-864-5616 / 029-284-4451
Fax : 029-864-3325
E-mail : shinichi.itoh@kek.jp
<報道担当>
  
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
広報室報道グループリーダー 岡田 小枝子
Tel : 029-879-6046
Fax : 029-879-6049
E-mail : press@kek.jp
  
国立研究開発法人理化学研究所
広報室 報道担当
Tel : 048-467-9272
Fax : 048-462-4715
E-mail : ex-press@riken.jp

 【 用語解説 / 補足説明 】 

 ※1  強磁性体とスピン波 : 
  結晶中の原子がスピン (微視的な磁石) をもち、スピンの方向を同じ向きにそろえようとする力 (交換相互作用) が働く場合がある。この力によって結晶内のスピンは同じ方向を向く場合、これを強磁性体と呼ぶ。温度が上昇すると、熱ゆらぎが大きくなり、同じ向きに向いている平均的なスピンの大きさ (磁化) は減少する。熱ゆらぎが大きくなって交換相互作用に打ち勝つと、スピンはばらばらの方向を向いて磁化はゼロになる。このように温度が上昇して磁化がゼロになる温度 (逆にスピンがばらばらの状態である高温から温度を下げて磁化が生じる温度) をキュリー点と呼ぶ。強磁性状態のとき、揃ったスピンの一部に揺らぎが加わると周囲のスピンの向きも変化し、この揺れが結晶全体に波として伝播する。これをスピン波と呼ぶ。スピン波を励起させるエネルギー (スピン波のエネルギー) は、交換相互作用に比例する。強磁性体に外から磁場をかけると、スピンは磁場の方向に向こうとし、揺らしにくくなるので、スピン波のエネルギーは増加する。外から磁場がかかっていない場合でも、ある方向に内部磁場がかかっているとみなすことができる場合もスピン波のエネルギーは増加する。通常は温度上昇によって熱ゆらぎは単調に増加するので、磁化も単調に減少し、スピン波のエネルギーも単調に減少する。それに対して今回発見したSrRuO3のスピン波のエネルギーの非単調な温度変化は、内部磁場以外の要因が働いていることを示している。
 ※2  電子状態の量子力学的な位相 : 
  電子は量子力学によると波として振る舞うので、波を特徴づける量である「位相」が重要となる。相対論的量子力学を記述するディラック方程式は運動量項と質量項からなる。このうち質量項をゼロとおいた方程式で記述される粒子をワイルフェルミオンと呼ぶ。これは、質量がないと考えられていたニュートリノを記述しようとしたものである。SrRuO3の電子状態は、ワイルフェルミオンと数学的に等価な構造を持ち、電子状態は運動量空間で記述されるので、運動量空間におけるワイルフェルミオンあるいは質量のないディラック電子と呼ばれる。ワイルフェルミオンで記述される電子状態は、量子力学的な位相を発生させ、運動量空間でのモノポールとして振舞う。
 ※3  ホール効果 : 
  通常のホール効果では、電流に垂直に磁場をかけると、その両方に垂直な方向に起電力を生じ、ホール抵抗 (起電力と電流の比) は磁場に比例する。強磁性体では、ホール抵抗にさらに磁化に比例する項が加わり、外部磁場がなくてもホール効果が起きる。これを異常ホール効果と呼ぶ。しかし、金属強磁性体SrRuO3のホール抵抗は磁化に比例しない。SrRuO3のようにワイルフェルミオンで記述される電子状態は、運動量空間でのモノポールとして振舞い、モノポールの磁場が異常ホール効果の起源となる。
 ※4  中性子ブリルアン散乱 : 
  中性子非弾性散乱実験では、スピン波からの中性子散乱強度をエネルギーと運動量の関数として測定するが、エネルギーと運動量の関係を分散曲線と呼ぶ。強磁性体のスピン波を観測する場合、単結晶試料を用いれば、スピン波の分散曲線上の観測しやすい領域に実験条件を選ぶことが容易に実行できる。しかし、粉末試料の場合は、散乱強度は、運動量ゼロ近傍の散乱のみが残り、運動量が大きくなると粉末平均によって急速に減衰する。運動量ゼロ近傍を観測する前方散乱近傍の中性子非弾性散乱を中性子ブリルアン散乱と呼ぶ。運動量ゼロ近傍にアクセスし、中性子ブリルアン散乱の実験条件を実現するためには、低散乱角(前方散乱近傍)で、高いエネルギーの中性子を入射し、高分解能を実現し、中性子散乱の運動力学的限界に迫る実験条件で実験する必要がある。HRCは同種の分光器に比べて低散乱角に中性子検出器が配置されていて、高いエネルギーの中性子を高分解能で利用できるので、今回の実験に必要なエネルギー運動量空間にアクセスすることが可能となった。この領域は、MLFではHRCのみがアクセスできる。中性子ブリルアン散乱実験は新しい実験方法ではなく、古くから、粉末試料等の磁性体のスピン波がより低エネルギーの場合に原子炉に設置された分光器で測定されてきたが、最近の技術的進歩により、アクセスできる領域が拡大した。中性子ブリルアン散乱専用装置としては、フランスのラウエランジュバン研究所にBRISP分光器がある。物質科学研究や材料開発では、新しい物質が合成されても、それが構造的にも化学的にも複雑な場合には、必ずしも大型の単結晶試料が合成されるわけではない。HRCの中性子ブリルアン散乱は、粉末試料、多結晶試料、非晶質試料、液体試料を用いても、協調的な原子の運動を観測できる実験方法であり、物質開発に対して有望な実験手法がJ-PARCにおいても可能になったことを示すものである。
  
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