プレスリリース

2022.10.06

半導体中の中性水素状態の謎を解明
- 実験と理論との有機的な協働による材料中の水素の詳細な理解へ期待 -

大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター

本研究成果のポイント

  ✣ 半導体材料中に広く存在する水素は、わずかな量でも材料の電気特性を大きく左右する重要な不純物欠陥。

  ✣ 酸化物半導体中のミュオン(=擬水素)研究の結果を精査することにより、これまで謎だった電気的に中性な状態も含め、全ての水素のイオン化状態についての実験結果を説明できるモデルを構築することに成功した。

  ✣ 実験と理論との有機的な協働による材料中の水素の詳細な理解へつながると期待。

概 要

  半導体中の水素は、数ppmというわずかな量でも材料の電気特性を大きく左右する重要な不純物欠陥であり、そのメカニズム解明のためには、材料中での水素のイオン化を理解することが不可欠である。ところが水素は理論上、熱平衡状態で正イオン、負イオンいずれか一方の状態しか取れないことが予想される一方で、実験的には多くの材料中で中性状態が確認されており、この不一致は格子欠陥の物理における数十年来の根本的な謎であった。高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系の門野良典特別教授、平石雅俊特任助教(当時)、岡部博孝特任助教(当時)、幸田章宏准教授、および東京工業大学の細野秀雄特命教授らの研究グループは、大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)(注1)の汎用μSR実験装置(ARTEMIS)を用いた研究を含む、過去半世紀にわたり蓄積された酸化物半導体中のミュオン(=水素の同位体とみなせる)の研究結果を精査することにより、このような中性状態が正イオン状態と対になって観測される、というこれまで見過ごされてきた事実に注目し、両者を理論的に予想される準安定なアクセプター状態とドナー状態(注2)の対に対応すると解釈することで、ほぼ全ての実験結果を体系的に説明できるモデルを構築することに成功した。これにより、実験と理論との有機的な協働による材料中の水素の詳細な理解への道が開かれた。

  この研究成果は、米国科学雑誌Journal of Applied Physicsに9月14日掲載(オンライン公開)された。

背 景

  水素(H)はあらゆる物質に入り込む普遍的な不純物で、鉄における水素脆性の例に見られるように、時として材料の性質を大きく左右します。半導体の分野においても、微量に含まれるHがシリコンの電気特性に大きな影響を及ぼすことが知られて以来、Hの挙動は大きな関心の対象です。これまでの研究からは、取り込まれたHの大部分は他の不純物と化学結合を作り、それらの電気活性を奪う(「不動態化」と呼ばれる)ことが知られています。このようなHを含む複合欠陥については既に様々な実験手法で解析が行われ、その局所構造が解明されつつあります。

  一方で、もうひとつの重要な問題であるH自身の不純物としての性質については、依然として未解明な部分があります。製造プロセスなどで取り込まれるような微量のHは、多くの場合結晶格子の間に孤立して存在すると考えられます。そのような孤立したHの挙動を理解することは、実用上だけでなくHが関与する半導体材料の電気活性全体を理解するための基礎的な学理という意味でも重要です。しかしながら、実際の材料中では孤立したHの相対的な存在量は少なく、それを直接的に観測する手法も限られています。

研究内容と成果

  このような背景の下、孤立Hについて実験的に情報を得られる数少ない手段として応用されてきたのが、素粒子ミュオン(μ+)を使う方法です。ミュオンは陽子の1/9、電子の206倍の質量を持ち、物質との相互作用(化学的性質)という意味ではHの軽い放射性同位体とみなすことができ、つまり擬水素として扱うことができます。(この点を表現するために、以下素粒子の名μ+に替えてMuを元素記号として用います。)材料中に注入・停止したMuの状態は、ベータ崩壊を用いるミュオンスピン回転(μSR)法(注3)により高感度で検出できるので、Muを孤立Hの実験的なシミュレーターとして使うことができます。このような目的の下、過去半世紀余りにわたり酸化物絶縁体・半導体中のMuの状態についての研究が蓄積されてきました。

  ところが、これらの実験で観測されたMuの状態は、孤立Hについての理論(密度汎関数理論に基づく第一原理計算:注4)で予想される状態と必ずしも一致しないことが以前から知られており、近年の計算科学の進歩で理論予想の精度が向上するにつれ、この不一致は基本的な問題としてますます顕在化してきました。具体的には、孤立Hは正イオン(H+)、負イオン(H-)いずれか一方の状態しか取れないことが理論的に予想される一方で(図1)、実験的には多くの酸化物材料中で中性状態のMu(Mu0)が確認されており、中性状態のH(H0)を観測した例も散見されます。それにもかかわらず、これら中性状態の起源は謎のままでした。

  そこで研究グループは、これまでにHについての第一原理計算が行われた酸化物を中心に、Mu/Hの実験結果について実験の状況などを含め詳細な再検討を行ないました。その結果、(1)中性状態を伴うMuやHの状態は準安定状態にあること、および(2)これらの状態が、やはり第一原理計算で準安定状態として予測されるアクセプター準位、およびドナー準位を伴った状態に対応する(図2)、という2つの仮定からなるモデル(両極性モデル)を立てることによって、Muの実験結果を統一的に記述できることを明らかにしました。特に、ワイドギャップ酸化物(注2)中で観測される中性状態は、アクセプター準位(E0/-)に電子が1個束縛された状態で、これと対になって観測される正イオン状態は、ドナー準位(E+/0)が伝導帯に入り込んだ状態に対応することがわかりました。

本研究の意義、今後への期待

  この両極性モデルは、孤立Hについての第一原理計算とMu/Hの実験結果との統合的な理解へ向けての端緒となると思われ、実験と理論との有機的な協働による材料中の水素の詳細な理解へつながると期待されます。

  本研究は、文部科学省の「元素戦略プロジェクト<研究拠点形成型>」(助成番号:JPMXP0112101001)、文部科学省JSPS科研費(No.19K15033)の支援により行われました。論文中に引用されたミュオンスピン回転の実験の一部は、KEK物質構造科学研究所による大学共同利用研究プログラム(課題番号2013MS01、2019MS02)の支援のもと行われました。

論文題目

  「Ambipolarity of diluted hydrogen in wide-gap oxides revealed by muon study(日本語題目:ミュオン研究によって明らかにされたワイドギャップ酸化物中の希薄水素の両極性)」

  雑誌名「Journal of Applied Physics」第132巻、105701(オンライン版2022年9月14日)

参考図

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図1 a)第一原理計算(密度汎関数理論に基づく)によって見積もられた酸化物絶縁体・半導体中における格子間の孤立水素(H+、H0、H-)の形成エネルギー(注5)バンド構造(注2)の模式図。横軸は電子が占有するエネルギー準位の上端であるフェルミ準位。酸化物ホストが周りと電子のやり取りをしている(例えば電池につながれている)場合、フェルミ準位(注2)は任意の値を取り得る。図中の赤線、青線、黒線は、格子間水素がそれぞれH+、H-、H0の場合のフェルミ準位に対する形成エネルギーの変化を示す。電子の供給が少ない(フェルミ準位が左に寄っている)場合にはH+の方が安定、逆の場合にはH-の方が安定で、Hが中性の場合には電子の供給によらないことを示している。b)この状況でフェルミ準位を価電子帯トップから伝導帯の底へと変化させる(電池の電圧を上げる)と、H+の形成エネルギーと H-の形成エネルギーの交点E+/-でHの荷電状態が+から-に変わる、つまりHが電子を2個受け取るので、Hに付随した不純物準位がE+/-にある、とみなすことができる。

  言い換えると、図a)のようにH0の形成エネルギーの値がこの不純物準位E+/-よりも高い場合、フェルミ準位がどのような値を取っても、H+あるいはH-の形成エネルギーのいずれか一方が常にH0の形成エネルギーより小さく(太線部分)、中性状態より正負いずれかにイオン化している状態の方が安定と予想される。

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図2 a)本論文で提案された水素の両極性モデルでは、図1でH+の形成エネルギーと H0の形成エネルギーの交点をドナー準位(E+/0)、H-の形成エネルギーとH0の形成エネルギーの交点をアクセプター準位(E0/-)と仮定し、さらにH(あるいはMu)はこれらに対応した2つの準安定状態を同時に取り得ると仮定する(両極性)。b) H(Mu)はこの準位を経由して伝導帯・価電子帯と電子・ホールのやり取りを行うことで中性状態を取ることができる。特にワイドギャップ酸化物中ではE+/0伝導帯に入り込むため、この準位の電子は常に伝導帯に放出され、E0/-準位に電子が1個束縛されたH0(Mu0)とH+の2つの状態が観測される。

お問い合せ先

< 研究内容に関すること >
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 教授 門野 良典
Tel:029 -284 -4896
e-mail:ryosuke.kadono[at]kek.jp
 
< 報道担当 >
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
広報室長 勝田 敏彦
Tel:029 -879 -6047
Fax:029 -879 -6049
e-mail:press[at]kek.jp
 
J-PARCセンター
広報セクション
Tel:029 -284 -4578
e-mail:pr-section[at]j-parc.jp
 

  ※ E-mailは上記アドレスの[*]を@に変えて使用してください。

 

用語解説

注1:大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)
  高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が運用する複合研究施設J-PARCのうち、大強度陽子加速器により生成されるミュオン及び中性子を用いて物質科学や生命科学に関する実験研究を行う施設。

注2:半導体中のアクセプター状態/ドナー状態、バンド構造、フェルミ準位
  図3に示すように、金属中の電子は、ペットボトルを一部分だけ満たした水と同じ状態にあり、外部からの刺激に対して自由に動くことができる(微小な電圧を印加することで電流を運ぶことができる)。一方、半導体や絶縁体中の電子は、蓋をした満タンのペットボトル中の水と同じで動くことができない。ところが、イオンになりやすい不純物を半導体に少量混ぜると(キャリア注入)、余分な電子あるいは正孔により電流を運べるようになる。このような不純物のうち、電子を放出して自身は正イオンになる不純物をドナー、電子を捕獲して(正孔を放出して)負イオンになる不純物をアクセプターと呼ぶ。

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図3:金属と半導体・絶縁体のバンド構造、および後者におけるアクセプターおよびドナーの電子状態の模式図。固体中で、電子はある一定範囲(図中放物線の内側)のエネルギーを取ることが許されており、これをエネルギーバンド、また2つのエネルギーバンドの間をバンドギャップと呼ぶ。電子はこのようなバンド中で連続的に存在するエネルギー準位を、低エネルギー側から順に占有している。個々の物質で定まる占有状態の上端を真性フェルミ準位と呼ぶ。このフェルミ準位がバンドの途中にある場合、フェルミ準位近傍の電子は外部からの電場に対して占有状態を変化できるので、そのような固体は導電性を示し金属となる。一方、フェルミ準位がちょうどエネルギーバンドの端にある場合、電子は占有状態を変えられないため絶縁体となる。なお、半導体とは、絶縁体のうちでバンドギャップが小さいもの(例えばシリコンは1.2 eV[エレクトロンボルト、電圧に換算する場合は単にボルト])を指し、3 eV以上の場合にはワイドギャップ半導体とも呼ばれる。ワイドギャップ半導体である酸化物をワイドギャップ酸化物とよぶ。前述のように、半導体は本来電気を流さないが、イオン化しやすい不純物を人工的に混入することで(キャリア注入)、電気伝導性を制御することができる。これら不純物のうち、電子を放出しやすいものをドナー、電子を捕獲(=正孔を放出)しやすいものをアクセプターと呼ぶ。

注3:ミュオンスピン回転(μSR)法
  加速器施設で生成するスピン(自転軸)が100%揃ったミュオンを試料に注入・停止し、その崩壊現象を利用してスピンの向きの時間変化を測定することで、試料中の磁場の大きさやゆらぎを観測する手法。ミュオンスピン回転/緩和/共鳴法の総称。ミュオンは試料中の磁場に影響を受けてそのスピンが歳差運動し(自転軸の回転運動、傾いたコマの首振り運動に相当)、平均2.2マイクロ秒で崩壊する。このときにスピンの方向に陽電子を放出することから、陽電子の放出方向を観測することで試料中の磁場の大きさを間接的に知ることができる。ミュオンが中性状態の水素に対応する状態(Mu0)にある場合、束縛している電子から 大きな磁場を感じるので、他の荷電状態(Mu+、Mu-)と容易に区別できる。

注4:第一原理計算
  第一原理計算とは「もっとも基本的な原理に基づく計算」という意味で、物質中の電子同士、原子核同士、および電子-原子核間のクーロン相互作用から出発し,近似モデルによらず量子力学の基本法則のみに立脚した電子状態理論を使って電子分布を決め,物質の諸性質を計算することを指す。具体的な計算手法として現在よく用いられているのが密度汎関数理論である。

注5:形成エネルギー
  水素に限らず、固体結晶中に外部から不純物を持ち込むと、「不純物欠陥」と呼ばれる格子欠陥を形成する。このような欠陥形成に伴う固体結晶全体のエネルギーの相対変化を、形成エネルギーと呼ぶ。通常、不純物を持ち込むには余分なエネルギーが必要なため、それにより形成エネルギーは増大する。従って、形成エネルギーが小さいほどその状態は安定となり形成されやすい。