生体膜における金属イオンと水の関係を探る- 中性子準弾性散乱からのアプローチ -
J-PARCセンター
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
一般財団法人 総合科学研究機構
【発表者】
【本研究成果のポイント】
✣ 生体膜の主成分であるリン脂質二重膜に付着した金属イオンによる、水和水 (※1) の状態変化の様子を中性子散乱により解明
【概要】
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構 (KEK) 物質構造科学研究所 / J-PARCセンターの瀬戸秀紀教授と一般財団法人 総合科学研究機構 (CROSS) 中性子科学センターの山田武研究員は、生体膜の主成分であるリン脂質二重膜 (※2) に水和する水を中性子準弾性散乱 (※3) で調べることにより、運動状態の違う3種類の水が存在することを明らかにしました。また水和水の状態はカルシウムイオンが付着しても変化が無かったのに対して、マグネシウムイオンや鉄イオンが付着した場合は、3種類の水の存在比が変わることが分かりました。
カルシウムやマグネシウム、鉄などの金属イオンは生体内にごく微量しか存在しないにも関わらず、すべての生物において生命維持の様々な場面で必須であることはよく知られています。今回の実験結果は生体における金属イオンと水の関係を明らかにする上で、重要な結果です。
この研究成果は米国現地時間の3月30日、学術誌Applied Physics Lettersに掲載されました。
図1 水を挟んだリン脂質の二重膜に付着する金属イオンの位置と水の状態の関係
(b) カルシウムイオンはリン脂質の水から遠い部分に付くのに対し (c) マグネシウムイオンと鉄イオンは水の近くに付く。
【背景】
ヒポクラテスが「貧血には鉄が薬になる」と語ったと言われているように、金属と生命・病気との関係は非常に古くから認識されてきました。現代では鉄のみならず亜鉛やマグネシウムなど、生体内にわずかに存在するさまざまな金属元素 (生体内金属) が、すべての生物の生命維持活動に必須であることが分かっています。
一方、ヒトの体重の約70%が水であることからも分かるように、水もまた生物にとって必須の物質です。生体内ではタンパク質や糖脂質など様々な分子がそれぞれの機能を果たしていますが、それらのほとんどは水の中で働いています。従って生体分子と水の関係を明らかにすることは、自然科学において重要な課題の一つです。
生体分子と金属イオンがどのように相互作用して機能を発現しているか。そこに水がどのように関わっているのか。この問題を解明することの重要性は広く認識されているにも関わらず、解明までは程遠い状況である、と言っても過言ではありません。
【研究手法と成果】
中性子準弾性散乱は、散乱の前後における中性子の微妙なエネルギー変化を調べることにより、原子や分子の運動状態を調べることのできる実験手法です。また中性子は原子核によって散乱され核種によって散乱の強さが変化することから、質量数が異なる原子すなわち同位体 (例えば、水素1Hに対する重水素2H) を用いて印をつけることにより複合体の特定の部分に焦点を当てることができます。
リン脂質は親水基 (水に馴染む部分) に二本の疎水基 (油に馴染む炭化水素鎖) が付いた形をしていて、水の中に入れると親水基が水側を向いて並び疎水基を間に挟んだ二重膜を作ります。細胞膜などの生体膜は、リン脂質の二重膜にタンパク質や糖脂質などの分子が埋め込まれたような形をしているため、リン脂質の二重膜は生体膜のモデル物質として様々な基礎研究に用いられています。
本研究では、リン脂質中のほとんど全ての水素原子を重水素に置換 (※4) した「重水素化リン脂質」を水 (軽水:軽水素1Hでできた普通の水) と混合しリン脂質の二重膜が水を挟んで多層膜になっている試料を用意しました。これは水 (軽水) 分子に含まれる水素からの非干渉性散乱 (※5) を測ることにより、水の運動状態を明らかにすることができるからです。
図2 細胞膜とリン脂質
実験は大強度陽子加速器施設 (J-PARC) 物質・生命科学実験施設 (MLF) 内のダイナミクス解析装置DNAを用いて行いました。そしてその結果、リン脂質膜に水和している水分子には3種類あること、すなわちリン脂質の親水基に付着してリン脂質分子と一緒に動いている「強結合水」と、それよりも10倍速く動いている「弱結合水」、そしてさらにそれよりも10倍速く液体の水とほぼ同じ速さで動く「自由水」に分類される、と結論づけました。 (図1 (a) )
次にこの「重水素化リン脂質+軽水」の系に、塩化カルシウム、塩化マグネシウム、塩化鉄をそれぞれ加えた試料を作成して、運動状態が異なる3種類の水和水の分子数がどのように変化するかを調べました。その結果、塩化カルシウムを加えた場合には3種類の水のそれぞれの数はほとんど変わらないのに対して、塩化マグネシウムと塩化鉄を加えた場合は「強結合水」の数が2倍程度に増加することが分かりました。また「弱結合水」の数は変わらないことも分かりました。
過去の研究によると、カルシウムイオンはリン脂質のグリセロール基に付着する (水から遠い部分に付く) のに対して、マグネシウムイオンと鉄イオンはリン酸基に付着する (水の近くに付く) ことが知られています。つまり金属イオンが水から遠い部分に付く場合は「強結合水」にも「弱結合水」にも影響を及ぼさないのに対し、水の近くに付く場合、「強結合水」に影響を及ぼし、「弱結合水」には影響を及ぼさないことが分かりました (図1 (b) , (c) ) 。
【本研究の意義、今後への期待】
人工心肺や人工血管など医用材料の表面には、血栓の形成を防ぐため「生体親和性高分子」がコーティングされています。この高分子表面に水和している水はリン脂質二重膜で見られた「弱結合水」と同じような状態にあると考えられていますが、それがなぜなのか、どのようにすればコントロールできるのか、などはほとんど分かっていません。今回の実験で、金属イオンのリン脂質膜への付き方によって「強結合水」の数が変化する一方で、「弱結合水」の数は変化しないことが分かりました。つまり「弱結合水」の形成には金属イオンは関与せず、リン脂質の親水基の性質で決まっていることが示唆されます。本研究の成果により生体親和性の原理が解明され、医用材料の開発につながっていくことが期待されます。また、これまで手がかりの乏しかった、生体分子の機能発現に金属イオンと水がどのように関わっているかという問題の解明に、中性子準弾性散乱が有効であることを示しました。今後もこの手法の活用により、さらに理解が進むことが期待されます。
本研究は、文部科学省 科学研究費補助金 新学術領域研究「水圏機能材料」のほか、複数の科学研究費の支援を受けて行われました。
【発表雑誌】
雑誌名 | Applied Physics Letters Volume #116, Issue #13 |
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論文タイトル | Quasielastic neutron scattering study of the effects of metal cations on the hydration water between phospholipid bilayers |
著者 | Hideki Seto(KEK/J-PARC), Takeshi Yamada (CROSS) |
DOI番号 | 10.1063/1.5144012 |
【用語解説】
(※1) 水和、水和水
水溶液中の溶質分子やイオンなどと水分子が相互作用することにより、溶質が水の中に拡散する現象のことを水和と呼び、溶質分子に結びついた水を水和水と言う。加えて、物質の表面の分子との相互作用により吸着している水も水和水と呼ばれる。
(※2) リン脂質二重膜
リン脂質は、リン酸などの親水基と二本の炭化水素鎖(疎水基)からなる棒状分子で、水の中では親水基を水の側にした二重膜を形成する。この「脂質二重膜」はほぼ全ての生物で細胞膜の基本構造となっている。
(※3) 中性子準弾性散乱
中性子の物質による散乱の前後の微小なエネルギー変化 (マイクロ電子ボルトからミリ電子ボルト) を調べることにより、分子や分子集団の運動状態を調べる実験手法。中性子が物質中の原子によって散乱されるとき、原子の運動により、散乱中性子の速さが少しだけ入射中性子よりも速くなったり遅くなったりする (入射中性子を波として考えた場合に、いわゆるドップラー効果に相当する) 。このとき散乱中性子はエネルギー (
E) =0の弾性散乱を中心としてエネルギー方向に裾野をもつスペクトルを示し (図3 (a) ) 、これを準弾性散乱という。この準弾性散乱のエネルギー幅の散乱ベクトルの大きさQ[Å-1]の2乗に対する関係を解析することで、運動の仕方 (拡散運動など) や拡散係数などが分かる。図3は、本研究で「重水素化リン脂質+軽水」の系に塩化カルシウムを加えた場合に得られた中性子準弾性散乱スペクトルとその解析データである。
図3「重水素化リン脂質+軽水」の系に塩化カルシウムを加えた場合に得られた中性子準弾性散乱スペクトル (a) と、散乱ベクトルの大きさの2乗と準弾性散乱成分の拡がりの関係 (b)