中性子回折実験から解き明かされた氷の謎:- 水素の移動様式の変化が高圧下でさまざまな異常を引き起こしていた -
発表者:
発表のポイント:
✣ 低温高圧その場中性子回折実験により、氷の相転移速度が10 GPa付近で最も遅くなるという異常な現象を発見した。
✣ この異常な振る舞いは、加圧によって水分子の回転運動が遅くなると同時に隣の酸素原子への水素の移動が速くなるというモデルによって説明できることがわかった。
✣ 本研究で提唱した水素の移動様式の変化は、これまでさまざまな実験で報告されてきた10 GPa付近での氷VII相の異常の起源であると思われ、今後、水素結合を持つ他の物質でも同様に観察される可能性がある。
発表概要:
氷には、温度や圧力に応じて異なる結晶構造を持った多形 (注1) が、少なくとも19種類存在することが確認されています。しかし、圧力が2 GPaより高くなると、その種類はずっと少なくなり、氷の持つ豊かな構造多様性は、一見失われたように見えます (図1) 。ところが、2 GPa以上で広く安定な氷VII相では、ラマン散乱 (注2) 、X線回折 (注3) 、電気伝導度 (注4) 、水素の拡散係数 (注5) 、X線照射による水分子の分解速度 (注6) などさまざまな実験において、いずれも10 GPa付近で異常な振る舞いを示すことが報告されていました。
今回、東京大学大学院理学系研究科小松一生准教授、鍵裕之教授らの研究グループはフランス・ソルボンヌ大学、総合科学研究機構 中性子科学センターおよび日本原子力研究開発機構 J-PARCセンターとの共同研究で、低温高圧その場中性子回折実験 (注7) により、氷VII-VIII相転移における水素の秩序化 (注8) の速度が10 GPa付近で最も遅くなることを発見しました。得られた実験結果は、加圧によって水分子の回転運動が遅くなり、同時に水素原子の隣の酸素原子への移動 (並進運動) が早くなるというモデルによって説明できることがわかりました。水分子の回転運動と水素原子の並進運動の2つの移動様式の速度が逆転するというメカニズムは、従来さまざまな実験で報告されていた氷VII相の高圧下の異常な振る舞いの起源であると考えられます。
氷VII-VIII相転移は典型的な秩序-無秩序相転移 (注8) であることから、今回発見された2つの移動様式の速度逆転は、水素結合を持つ他の物質にも一般的に見られる可能性があります。
発表内容:
【研究背景】
氷が融けて水になる現象は、私たちの普段の生活の中で最も身近に起こる相転移と言ってよいでしょう。実はその固体の氷も、温度や圧力を変化させることで、通常の氷とは異なる結晶構造を持った別の氷に相転移させることができます。このように変化した氷の多形は、現在まで少なくとも19種類存在することが知られています (図1) 。これほど多くの多形を持つ物質は他にはなく、氷の持つ構造多様性そのものが、氷の特異な性質の一つと考えることができます。ところが、2 GPa以上の圧力になると、多形の種類はずっと少なくなり、氷VII・VIII・X・XVIII相の4つに絞られます。さらにこのうち、氷VII・VIII・X相は水分子がいずれも体心立方格子をとるという点で共通しており、氷の持つ構造多様性は高圧下では失われてしまったように見えます。
ところで密度や電気伝導度など物質の性質は、結晶構造が変わるような相転移がおきない限り、温度や圧力に対して単調に増加するか、あるいは単調に減少するのが普通です。しかし、氷VII相については、過去に実施されたさまざまな実験において、明瞭な構造変化は見られないにも関わらず、10 GPa付近を境に低圧側と高圧側で異なるトレンドを示すことが知られています。例えば、電気伝導度や水素の拡散係数、X線照射による水分子の解離速度が10 GPa付近で最大となることや、ラマン散乱スペクトルのピークが10 GPa付近で最もシャープになること、X線回折パターンのピークは逆に最もブロードとなることなどが報告されてきました。このような氷VII相の"異常な"振る舞いは、氷VII相が10 GPa付近で、なんらかの変化をおこしていることを示唆していますが、その実態や起源については長い間未解明のままでした。その理由の一つは、高圧という特殊な環境で水素の位置や動きをとらえることが技術的に困難であったためです。
【研究内容】
本研究では、氷VII相からその水素秩序相である氷VIII相への相転移に着目しました。この秩序―無秩序相転移は、水素の移動を伴うため、氷VII-VIII相を観察することで水素の位置のみならず水素の動きについての情報も得られるためです。水素を含めた構造情報を得るためには中性子回折が有力な手段となりますが、本実験では、大強度陽子加速器施設J-PARCの高圧ビームラインであるPLANETを用いました (注9) 。
実験では、水を加圧し氷VII相を得たのちに、これを氷VIII相が安定となる温度まで急冷して氷VII相から氷VIII相への相転移を観察しました。すると、ある圧力以上では氷VIII相に完全には相転移しないことがわかりました。さらにいくつかの異なる圧力で氷VII相を急冷し、氷VIII相への相転移速度を調べたところ、その速度は、圧力上昇とともに一旦遅くなるものの、10 GPa以上では逆に速くなるという、これまで知られていなかった新たな現象を発見しました。
本研究グループは、この実験結果を次のように解釈しました。まず、氷VII相から氷VIII相へ相転移するには、水素が移動する必要があります。これを実現するには、水分子の回転運動と、隣りの酸素への水素の並進運動の2つが考えられます (図2) 。水分子が回転するためには、その周囲に回転するためのスペースが必要となりますが、高圧下ではそのスペースが小さくなってくるために、水分子の回転運動は遅くなっていくと考えられます。一方で、隣の酸素への水素の並進運動は、水分子間の距離が小さくなればなるほど起こりやすくなるので、高圧下ほど速くなっていくことが考えられます。この「加圧によって水分子の回転運動は遅くなり、一方で水素結合上の水素の並進運動は速くなる」、という現象をモデル式で表し、観測値に対するあてはめを行ったところ、実験結果を非常によく再現できることがわかりました (図3) 。さらに、この「水素の回転運動と並進運動の速度逆転」という考えを適用すると、これまでさまざまな実験で観察されていた異常を説明できることも分かりました。この水素の移動様式の変化こそが、長い間未解決だった氷VII相の10 GPa付近での異常な振る舞いの起源であることをつきとめたのです。
【研究の意義】
今回明らかとなった回転運動と並進運動の速度が逆転するというシナリオ自体は、従来の電気伝導度や水素拡散の研究でもそれぞれ個別に提唱されていました。今回の実験は低温高圧その場中性子回折を用いて、水素の運動と氷の結晶構造を直接結び付けることに成功したことで、従来から提唱されていたシナリオをミクロな結晶構造の立場から実証し、さらにさまざまな実験結果を本シナリオに基づいて包括的に説明したという点で重要な科学的意義を持つものです。
氷は典型的な水素結合性物質ですから、本研究で得られた知見は、氷のみならず水素結合を持つ物質全般に適用できる可能性があります。水素結合は共有結合やイオン結合より柔軟性があり、温度・圧力によりその距離や角度を変化させることで、相互作用の大きさが劇的に変化するという際立った特徴があります。この水素結合の柔軟性が、物質の誘電性や弾性率といった物性に直接的な影響を与え、さらにはDNAやタンパク質の機能発現にも主要な役割を担っていることが知られています。氷はすべての水分子が水素結合によって結合しているため、水素結合の特徴が特に表れやすいという事情はありますが、今回発見した水素の移動様式の変化が、今後他の水素結合性物質でも同様に見つかるかもしれません。もしそうなれば、本研究が水素結合研究にとって重要なマイルストーンであった、ということになるでしょう。
氷はあらゆる物質の中でも、最もよく研究された物質の一つですが、それでも数多くの未解決問題が残されています。実は、本研究の当初の目的は、氷VIII相の圧力に対する体積の変化を調べるというもので、10 GPaの異常とは全く無関係のものでした。つまり、今回の発見は偶然の産物です。この偶然の発見が、長年の未解決問題の解決に結びついたことは、望外の結果というほかありませんが、さまざまな現象が一つのシナリオのもとで結び付いていることを考えると、本研究によって得られた知見も、将来予想もしない形で応用されるかもしれません。
発表雑誌:
雑誌名 | Proceedings of the National Academy of Sciences |
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論文タイトル | Anomalous hydrogen dynamics of the ice VII-VIII transition revealed by high pressure neutron diffraction |
著者 | Kazuki Komatsu, Stefan Klotz, Shinichi Machida, Asami Sano-Furukawa, Takanori Hattori & Hiroyuki Kagi |
DOI番号 | https://www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.1920447117 |
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用語解説
(注1) 氷の多形
黒鉛とダイヤモンドのように、同じ化学組成を持ちながら異なる結晶構造を持つものを多形といいます。氷には2020年1月現在、少なくとも19種類もの多形が報告されており (図1) 、その多形の種類の多さは、ほかの物質と比べても際立っています。
(注2) ラマン散乱
物質に光を照射したとき、分子振動によって、照射した光の波長とは異なる波長の光が散乱されることがあり、これをラマン散乱といいます。氷VII相では、ラマン散乱のピークの幅が10 GPa付近で最小値を持つことが報告されていました。
(注3) X線回折
X線を結晶にあてたとき、結晶中の周期的に並んだ原子から散乱されたX線が干渉する現象。回折パターンを詳しく解析することで、結晶格子の大きさ、原子位置など結晶構造に関する情報や、粒子のサイズ、格子ひずみなどの情報も得ることができます。氷VII相では、X線回折ピークの幅が10-15 GPa付近で最大値を持つことが報告されていました。
(注4) 電気伝導度
物質中の電流の流れやすさの度合いを示したもの。通常は、物質中の電子が移動することで電流が流れますが、氷の場合は、プロトンの移動により電流が流れます。氷VII相では、10-15 GPa付近で電気伝導度が最大となることが報告されていました。
(注5) 水素の拡散係数
拡散係数とは、濃度勾配に対する原子の移動のしやすさを表した係数で、通常は異種元素が互いに拡散して交じり合う現象を取り扱いますが、同種元素の場合でも同位体の移動を観察することで拡散係数を求めることができます。氷VII相では、10 GPa付近で水素の拡散係数が最も大きくなることが報告されています。
(注6) X線照射による水分子の分解速度
X線は電離放射線の一種で、原子をイオン化させる能力があります。氷VII相でも、強いX線を照射することで氷中の一部の水分子がイオン化し分解することが知られていますが、その分解生成物の量が10-15 GPa付近で最大値を持つことが報告されています。
(注7) 低温高圧その場中性子回折実験
中性子回折では、原子中の原子核が散乱体となるため、電子と相互作用した結果であるX線回折とは異なる情報が得られます。電子数の少ない水素からも重元素と同程度の散乱があるため、氷のように水素を含む物質の構造解析に適した研究手法です。一般に中性子回折を行うには、少なくともミリメートルサイズの試料が必要となりますが、このようなサイズの試料の温度・圧力を調整することは容易ではありません。本研究では、低温高圧環境でも中性子回折測定ができる「Mito system」と呼ばれる温度圧力可変装置を用いています。 (2020年2月3日既報:https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6686/)
(注8) 水素の秩序化・秩序度・秩序-無秩序相転移
氷中の一つの水分子に注目すると、それと隣り合う水分子が四面体の頂点に位置しており、水分子どうしは水素結合で結び付いています (図1) 。1つの水分子は2つの水素を持ち、4つある水素結合のうちいずれか2つに位置することになります。この水素の配置の取り方がランダムなものを無秩序相、特定の配置を持つものを秩序相と呼びます。無秩序相では、ある水素位置に実際に水素がいる確率 (占有率) は50%となります。水素の配置がランダムな状態から特定の配置へ変化することを、ここでは水素の秩序化と呼び、秩序化の進行度合いを秩序度と呼びます。秩序化する原子以外の原子 (氷では酸素) が同じ構造を持つとき、温度を変化させることで秩序相と無秩序相とを互いに変化させることができ、この変化を秩序-無秩序相転移といいます。
(注9) J-PARC (大強度陽子加速器施設;Japan Proton Accelerator Research Complex)
日本原子力研究開発機構と高エネルギー加速器研究機構が共同で運営している加速器実験施設。陽子加速器群と、物質・生命科学実験施設、ニュートリノ実験施設、ハドロン実験施設の実験施設群から成り、物質科学、生命科学、素粒子物理、原子核物理など幅広い分野の研究が行われています。本研究では、物質・生命科学実験施設の超高圧中性子回折装置PLANETを用いて実験を行いました。PLANETは、高圧に特化した中性子回折装置で、低温高圧下でも室温常圧の実験と遜色ないデータを得ることができるため、本研究には不可欠な装置となります。
添付資料
図1. 氷の相図と結晶構造。氷の多形はローマ数字で表され、Ih, Ic, II, III・・・XVIIIの19種類が現在まで確認されています。氷多形の多くは無秩序相と秩序相とに分類することができます (注8) 。本研究で対象とした氷VII相と氷VIII相は、ともに酸素原子がほぼ体心立方格子となりますが、氷VII相では水素の配置が無秩序であるのに対し、氷VIII相では水素は特定の配置をとります。
図2. 水分子の回転運動 (左) と水素原子の隣の酸素原子への並進運動 (右) の模式図。
図3. 中性子回折測定から得られた氷VIII相の秩序度 (下) 。中性子回折実験は2回行い (Run1およびRun2) 、いずれも10 GPa付近で秩序度が最小になる現象が観察されました。低圧では回転運動の方が並進運動より速く (左上) 、一方、水分子間のスペースが小さくなる高圧下では、並進運動の方が回転運動より速くなる (右上) という現象をモデル式で表し、観測値に対するあてはめを行いました。