プレスリリース

2024.01.11

量子磁性体のスピン波寿命を磁場で制御することに成功
- スピン流制御のスイッチデバイスの可能性 - 

東京大学
高エネルギー加速器研究機構
J-PARC センター

発表のポイント

  ✣ 量子磁性体のスピン波寿命を磁場で制御することに世界で初めて成功しました。
  ✣ スピン波寿命に関する研究はこれまで数多くありましたが、寿命を制御するのは初めての試みです。
  ✣ 外場からの寿命制御が可能になったことで、量子磁性体がスピン流制御の新しいスイッチデバイスとなることが期待されます。

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磁場でスピン波寿命が制御される様子(概念図)

発表概要

  東京大学物性研究所の大学院生長谷川舜介氏、菊地帆高氏(ともに研究当時、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士過程)と益田隆嗣准教授の研究グループは、高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所の伊藤晋一教授と共同で、量子磁性体(注1)RbFeCl3スピン波(注2)寿命を磁場により制御することに成功しました。

  スピン流(注3)は絶縁体でも存在し、電荷の移動を伴わないためエネルギー損失のない流れとして注目されています。スピン流をエレクトロニクスのように利用するには、スピン波の安定性の制御が有効です。

  研究グループは、スピン波の安定性、スピン間の相互作用の強さ、磁性体の基本的性質をミクロなレベルで理解するため、中性子散乱(注4)を用いて量子磁性体RbFeCl3 を詳細に調べました。これまでは、個々の量子磁性体において、スピン波の安定性の研究がなされていました。本研究では、RbFeCl3という量子磁性体に着目し、磁場中でスペクトル輝線(モード)がどのように変化するか調べました。その結果、磁場がない状態ではシャープなモード(長寿命)が磁場を加えることでよりブロード(短寿命)になり、さらに強い磁場を加えると再びシャープ(長寿命)になることを見出しました。つまり、量子磁性体のスピン波寿命が磁場で制御可能であることが実証されました。量子磁性体のスピン波寿命制御を活用することで、次世代電子デバイスへの応用が期待されているスピン流制御の新しいスイッチング機構となり得ます。

  本成果は、英国科学雑誌『Nature Communications』の1 月11 日付オンライン版に掲載されました。

発表内容

研究の背景

  量子磁性体のスピンの運動状態は、数多くのスピンの集団運動を波として捉える"スピン波"、あるいは"マグノン(注5)"によって理解されます。これは、古典力学の問題で、バネにつながれた多数の質点から構成される調和振動子の運動を、特定の振動数と波長で特徴づけられる"振動モード"によって理解するのと同じです。振動モードを調べることでバネ定数が分かるように、スピン波やマグノンを調べることで、スピン間の相互作用の強さを調べることができ、量子磁性体の基本的性質をミクロなレベルで理解することができます。

  また、調和振動子を水の中に入れると、粘性抵抗のためにエネルギーが散逸し振動は徐々に弱くなっていきます。同様に、物質中のスピン波も、周囲から強い抵抗を受ける環境下におかれると、徐々に弱くなります。これまでの研究では、個々の物質でスピン波がどのように安定に存在しているか、あるいは不安定となっているかについて、数多く調べられてきました。しかし、1つの物質においてスピン波の安定性を外部から制御する試みは行われていませんでした。

研究の内容

  研究グループは、大強度陽子加速器施設J-PARC(注6)物質・生命科学実験施設MLF のHRC高分解能チョッパー分光器、日本原子力研究開発機構(JAEA)研究用原子炉JRR-3 のHER 分光器、および米国オークリッジ国立研究所のHYSPEC 分光器を用いて、量子磁性体RbFeCl3のスピン波をさまざまな磁場下で測定しました。

  スピン波やマグノンを観測するためには、中性子散乱を用いることが効果的です。磁性体で散乱された中性子の運動を分析すること(つまりスペクトル解析すること)により、磁性体内部のスピンの運動状態を調べることが出来るからです。また、スペクトルの輝線のシャープさを測定することで、運動状態の寿命を見積もることが出来ます。輝線がシャープであるということは、長時間そのエネルギーでスピン波が運動し続けることができることを意味し、ブロードであるということは、短時間でエネルギーが散逸しスピン波は消えてしまうことを意味します。

  図1a-f に、さまざまな磁場下で測定されたRbFeCl3の中性子スペクトルを示します。横軸は波数、縦軸はエネルギーとなっています。高強度の輝線が、観測されたスピン波です。0 T(テスラ、磁場の強さの単位)ではスピン波のスペクトル輝線(モード)の数は少ないのですが、磁場下ではZeeman 分裂(注7)を起こしモードが増え、高磁場ではより複雑となる様子が分かります。ここで、h = 0.5 の波数(図1左実験図Γ 点)近傍の赤矢印で示されたスペクトルに着目します。0 T で1本であったモードが1 T で分裂し、2 T までは明瞭に観測されています。しかし3 T では、本来モードが存在するであろう2 meV(ミリ電子ボルト、エネルギーの単位)近傍でモードは非常にブロードとなり、スピン波は不安定化し寿命が短くなっていることが分かります。さらに4 T に印加すると、ブロードな強度の下に、白矢印で示されたシャープなモードが出現します。5 T ではより明瞭になり寿命は長くなります。このように、磁場印加によりスピン波の寿命を制御することに成功しました。5 T の2 meV 近傍のモードの形状は、低磁場から推察すると、もう少し曲率の小さい曲線になりそうなところですが、実際には曲率が大きくほぼフラットな曲線となっています。またエネルギー的に下に押し下げられているようにも見えます。

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図1:a-f 磁場下のRbFeCl3の中性子スペクトル。g-l 計算された2 マグノン状態密度。白実線と赤実線は計算されたスピン波モード

  なぜスピン波の寿命は磁場により制御されたのでしょうか?先の例えに用いた水中の調和振動子では、水の粘性抵抗が振動の減衰の原因です。スピン波では、水に相当するものが2マグノン連続励起(注8)とよばれるものであり、スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用が粘性抵抗になります。過去の研究成果から、この相互作用が弱い場合にはスピン波のモードは連続励起の中で不安定化すること、また、連続励起の状態密度が大きいとより不安定化しやすいことが知られています。また、相互作用が強い場合には、スピン波のモードが2 マグノン連続励起領域から押し出されて安定化することも知られています。

  そこで、RbFeCl3の磁場下2 マグノン連続励起の状態密度を、相互作用を無視した場合について計算したところ、図1g-l のようになりました。黄色は、2 マグノン連続励起の状態密度が大きな領域を示しています。白い実線で示されたスピン波モードと連続励起の関係を見ると、0 T では離れていますが、磁場を印加していくと僅かに近づいていきます。スピン波モードのエネルギーにおける2 マグノン状態密度は高くなっており、これによりスピン波は不安定化していると考えられます。また、スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用を磁場に対してプロットすると、図2 の黒いダイヤに示されるように単調増加していることが分かりました。スピン波のエネルギーの計算値と実測値の差を磁場に対して赤い四角でプロットすると、2 T までは計算値と実測値は一致するものの、3 T 以上では実測値が計算値よりも小さくなっていることが分かりました。このことから、磁場増大によりスピン波と連続励起の相互作用が徐々に大きくなり、3 T 以上で臨界値を超えることでスピン波のエネルギーは下に押し下げられ、これに伴いスピン波の寿命は延びたと考えられます。

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図2:スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用の磁場依存性(黒ダイヤ)と、スピン波エネルギーの実測値と計算値の差(赤四角)

今後の展望

  スピン波はスピン流を運ぶ準粒子の一つです。スピン波スピン流は絶縁体でも存在するエネルギー損失のない流れとして注目されています。本研究では、スピン波寿命が磁場により制御可能であることが実証されました。

  将来的に、室温程度のエネルギーのスピン波寿命を磁場制御可能な量子磁性体が見つかれば、スピン流を制御するスイッチデバイスとなり得ます。より近い視点からは、中性子分光器の進歩により、スピン波寿命の磁場制御の研究は、今後ますます盛んになると期待されます。

発表者

東京大学物性研究所
益田 隆嗣 准教授
兼:高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所 客員准教授、東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構
高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所
伊藤 晋一 教授

論文情報

雑誌 Nature Communications
題名 Field Control of Quasiparticle Decay in a Quantum Antiferromagnet
著者 Shunsuke Hasegawa, Hodaka Kikuchi, Shinichiro Asai, Zijun Wei, Barry Winn, Gabriele Sala, Shinichi Itoh, Takatsugu Masuda*
DOI 10.1038/s41467-023-44435-0

研究助成

  本研究は、科研費「国際共同研究加速基金(課題番号:19KK0069)」、「挑戦的研究(萌芽)(課題番号:20K20896)」、「基盤研究(A)(課題番号:21H04441)」の支援により実施されました。

用語解説

(注1)量子磁性体
  スピン(電子や原子核のもつ最も小さな磁気)の大きさが1/2 や1 など小さく、量子性の強い磁性体のこと。

(注2)スピン波
  物質中のスピンの集団運動状態のこと。

(注3)スピン流
  物質中のスピンの流れのこと。例えば、電流は電荷の流れであり、同様にスピン流はスピンの流れである。

(注4)中性子散乱
  中性子をプローブとして物質の静的・動的構造を調べる実験手法のこと。

(注5)マグノン
  スピン波を量子化した状態のこと。スピン波自体はいくつもの独立したスピンの動きだが、それらが強く作用しあい、一つの粒子のように振る舞うため、まとめて一つのものとして扱うことができる状態。

(注6)大強度陽子加速器施設J-PARC
  高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設。素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC 内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まる。

(注7)Zeeman 分裂
  ゼロ磁場では上向きスピン状態と下向きスピン状態のエネルギーが同じであるが、磁場下ではこれらのエネルギーに差が生じる現象のこと。

(注8)2 マグノン連続励起
  2 つのマグノンが結合した状態のこと。