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2021.07.15

J-PARC News 号外
「小惑星リュウグウのサンプル J-PARCで分析開始」

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■小惑星リュウグウのサンプル J-PARCで分析開始 ―命のふるさとをミュオンで見つめる―

 生命の源である有機物や水は、小惑星がこの地球に持ち込んだのではないかと言われています。しかし衝突する際に高温になったり、地球環境の長い時間で変成したりして、現在の地上にある有機物や水の中に、当時の痕跡はありません。近年では惑星探査機の発達に伴い、小惑星そのものに降り立つことで、命のふるさとを探し出そうという動きが活発になっています。
 小惑星探査機は、今まで全世界で十数機が打ち上げられていますが、小惑星のサンプルの持ち帰りに成功したのは、現時点で、我が国の「はやぶさ」によるイトカワ、「はやぶさ2」によるリュウグウの2回だけです。リュウグウはC型小惑星に分類されており、炭素をはじめとする揮発性の物質を多く含んでいると考えられています。となるとリュウグウには、地球上に生命体を創りあげた有機物の痕跡が残っていると期待できるのです。
 とは言え、C型小惑星でも、炭素の量は全体の数%に過ぎないと言われています。ごくわずかな量のリターンサンプルの中にごくわずかな割合で含まれている炭素量を、どのように測定するのでしょうか。
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 そこで白羽の矢が立ったのはミュオンです。ミュオンは正の電荷と負の電荷をもつものが存在しますが、電子と同じ負の電荷をもつ負ミュオンはサンプルの中の元素の組成を分析する優れた道具となります。特に放射光による分析では難しい炭素のような軽い元素についても、サンプル内部の状態を非破壊で測定できます。非破壊でサンプル全体の様子を包括的に調べられる負ミュオンによる分析は、一連の分析の中で、最初に行うのに最も適した手段です。

 J-PARCでは、2010年に「初代はやぶさ」が帰還する前から、小惑星サンプルに対し、負ミュオンによる炭素をはじめとする軽元素分析を行う計画を立てていました。物質・生命科学実験施設(MLF)内のD2ミュオン基礎科学実験装置では、世界最高強度の負ミュオンビームを発生できます。この負ミュオンビームとこれまで開発してきた装置を組み合わせることで、わずか10mgのサンプルでも炭素が測定できることを実証するなど、小惑星リュウグウのサンプルを受け入れる環境を整えてきました。

 2020年12月6日にリュウグウから帰還したはやぶさ2のカプセルの中には、予定されていた0.1gを大きく上回る5.4gものサンプルが入っていました。J-PARCには3番目に大きいサンプルを始め、計10粒が割り当てられ、6月28日から7月3日まで、予定どおり負ミュオン照射が行われ、データが取得されました。
 7月5日、リュウグウのサンプルは次の目的地であるSPring-8に向けて旅立っていきました。ミュオン実験施設では、引き続き実験結果の解析を行っています。

 

■到着

 6月28日午後、リュウグウのサンプルが入ったカプセルが、J-PARCのMLFに到着しました。中村智樹東北大学教授がリーダーを務める「石の物質分析チーム」が解析を行うためのサンプルです。中村教授は従来から隕石の元素分析を行ってきた専門家です。「初代はやぶさ」が持ち帰ったイトカワの分析では放射光X線や電子顕微鏡を使った分析を行ったのですが、今回、初めて、地球外の生きたC型小惑星に負ミュオンを照射する機会を得たのです。
 このチームでは、直径1mm以上の粒を扱います。アクリルの箱であるデシケータの中には、93.5mgの大きな粒と、数mgの9粒の合計約120mgのサンプルが入っています。はやぶさ2が持ち帰ったリュウグウのサンプル全体のわずか2%とはいえ、こんなに多くの手つかずのリュウグウのサンプルを一度に分析できる機会は、もう二度とないでしょう。
 写真はサンプルを入れたデシケータをプラスチックの袋に包んだもので、この状態でJ-PARCまで運ばれてきました。デシケータ内は地球の大気に触れないように、持ち込み時は窒素ガス、持ち出し時はヘリウムガスという不活性ガスで充満してあります。
 薄い銅の箔で包まれた赤丸の部分に10個のサンプル本体が入っています。負ミュオンビームは銅箔を透過することができるので、サンプルだけを測定することができます。そのかわり、J-PARCに持ち込まれている間、サンプルの現物を直接見ることは一度もできません。

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■装填

 サンプルが入ったデシケータは、まずヘリウムを充填したグローブボックスに装填されます。その中でデシケータからサンプルを取り出し、最後にグローブボックスに接続したミュオンを照射するチャンバー内にサンプルが装填されます。
 サンプルを直接操作できるのは、チームリーダーの中村教授のみです。中村教授がグローブの奥まで手を入れ、サンプルを移し替えます。周囲のスタッフはサンプルの位置の確認や誘導、ヘリウム量の調整などの支援を行います。
 ミュオンを照射するチャンバーの入口にはアルミニウム窓があり、負ミュオンビームはここを透過します。地球の大気によるサンプルの汚染を避けるために、毎分5~6リットルのヘリウムガスが常に流されています。元素分析リーダーの二宮和彦大阪大学准教授がごく薄いアルミニウム窓を覗き込み、グローブボックスに送るヘリウムの供給量を指示します。「はやぶさ2」が最新の技術により最大の注意を払いながら採取した、地球外サンプルです。ミュオン実験施設で地球の大気に汚染させるわけには行きません。ボックス内にわずかに残る水蒸気量を監視するため、常に露点計の数値が読み上げられます。
 小惑星リュウグウのサンプルは大変もろく、扱い方を誤るとすぐに傷が付きます。中村教授が行うサンプルの装填作業には、迅速かつ正確な動作が要求されます。デシケータから試料台だけを取り出し、負ミュオンを照射するチャンバーに装填する作業は、熟練した外科医が執刀する手術のようです。手術と異なるのは、広大な部屋で作業をすることです。冷却水の流れる音が常にMLFの実験ホール全体に響いています。高さ20mを超える天井の照明からの純白な光が、実験ホールの床をまんべんなく照らします。快適な空調とは言え、マスクをしたスタッフ達の額に、汗がわずかに反射します。
 チャンバー内にあるレールの上を、試料台が滑ります。午後10時半過ぎ、カチッというかすかな音とともに、中村教授の手が止まりました。肉眼では見えませんが、試料が負ミュオンビーム照射位置に装填されたのです。

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■照射

 サンプルの装填を確認したスタッフは、速やかにD2実験エリアから全員退避し、頑丈なドアが閉められます。
 MLFにはリニアック、RCSのふたつの加速器で30億電子ボルトまで加速された大量の陽子ビームが1秒間に25回、導入されています。ミュオン生成標的は20mmの厚さのグラファイトで作られており、ここを通過する陽子の一部がπ中間子となり、それが自然崩壊してニュートリノとミュオンに変わり、ミュオンだけがビームラインの中を通ります。
 シャッターボタン「開」が押され、「BEAM ON」のランプが点きました。パソコンのディスプレイには、サンプル周りに配置された6台の検出器が感知したミュオン特性X線のカウント数が、踊るように動き始めます。画面を切り替えると、エネルギーを横軸、カウント数を縦軸にとったスペクトルに針のようなピークが立ち上がります。

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 ミュオンビームラインの中にある十数台の電磁石は、リュウグウのサンプル全体に大強度の負ミュオンを正確に照射できるよう、あらかじめ最適な強度に設定してあります。
 7月3日の午後まで、途中6月30日の半日メンテナンスを除く4日間半、小惑星リュウグウのサンプルは誰もいない実験エリアの中で、強力な負ミュオンのビームを照射され続けます。

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■取出

 7月3日夕方、D2ビームラインのシャッターが閉じられると、実験エリア内は再び活気を取り戻します。サンプルをチャンバーからデシケータまで戻す緊張の作業が再開されるのです。無事に負ミュオンビーム照射の任務を果たしたリュウグウサンプルですが、ここで傷をつけると、この先のすべての解析に支障をきたします。
 無事、デシケータに戻ったサンプルは、すぐに屋外に出せる訳ではありません。負ミュオンビームの照射により、放射化していないことを確かめる必要があります。一晩ゲルマニウム検出器で測定し、持出しができることを確認しました。

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■出発とその後

 7月5日の早朝、中村教授はごく小さなリュウグウサンプルが入った大きなデシケータを抱え、ひとりでSPring-8へ向かいました。
 一方その頃、ミュオンD2の実験エリアでは、再び負ミュオンビームが「ON」になっています。残ったスタッフは、リュウグウと同じ仲間であるC型小惑星に由来すると考えられる隕石「炭素質コンドライト」の分析に携わっているのです。隕石を薄い銅の箔で包み、同じ条件で負ミュオンビームを照射して、前日までのリュウグウサンプルの照射で得られたデータと比較します。
 リュウグウサンプルと地球に落ちてきた隕石とは、どれくらい成分に相違があるのか、研究スタッフによる詳細な解析が今も進められています。

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さんぽ道 ⑫ -梅雨空の下-

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 茨城県東海村は、小惑星リュウグウのサンプルがJ-PARCに搬入された翌日から搬出されるまでの1週間、連日雨が降り続いていました。負ミュオンの照射をしているMLF建屋の上空は、うす汚れたシーツを一面に被せたように、分厚い雲が覆っています。玄関前の水たまりには、落ちた雨粒が無気力に輪を作り、すぐに消えます。視線を上げると雨粒はねずみ色の雲の色と同化し、どんなに目を凝らしても、その先を見ることはできません。
 J-PARCでのリュウグウサンプルの解析は、この雨粒の源を探るようなものです。サンプルは銅の箔という厳重な雲に包まれ、実物を見ることはもちろん、その姿を想像することもできません。しかしミュオンを使うと全体像が浮かび上がるのです。
 直径わずか900mの星とも言えない小さな惑星、リュウグウに降り立ったはやぶさ2が持ち帰ったサンプル量は予定の50倍ありましたが、それでも全部で角砂糖程度です。そのうち、ミュオン照射に配られたサンプルは、一番大きいもので米2~3粒程度のものが1個、ゴマ粒程度のものが9個の計10個です。
 負ミュオンビームを照射して得られるデータは、サンプル全体に照射されたミュオン特性X線スペクトルだけです。しかし、このデータを得るだけで、今ここに集まっているミュオンスタッフの何倍もの人数が必要です。大強度のミュオンを取り出すためにぶつける陽子を30億電子ボルトまで加速するための加速器スタッフ、ジャンボジェット機2機分が収納できる建屋の空調などを管理する施設スタッフ、安全を管理するスタッフなど、それぞれがリュウグウサンプルの照射中、各部署に就いて初めて可能です。
 大強度の負ミュオンを4日間半にわたって照射したことで、得られたX線のカウント数は膨大なものになりました。サンプル全体の元素組成を知ることは、元素の局所分布や動きを知るための基礎の基礎です。少しの風が吹いたら飛ぶくらいのサンプル量でも、精密なデータがとれました。これはJ-PARCの世界最高強度の負ミュオンビームと、最高の測定装置により得られたものでしょう。そして、サンプルを決して壊すことなく、次の実験へバトンタッチできたことを、私たちJ-PARCスタッフは誇りに思います。
 間もなく梅雨が開け、真夏の日差しがMLF建屋の南側の壁を強烈に照らし、北側には広大な力強い影を作ります。小惑星リュウグウの解析結果がまとめられるのは、初期分析チームだけでも1年後になります。

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 本課題は、高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所ミュオン共同利用S1型実験課題(2019MS01)として実施したものです。また、KEKミュオングループによる装置課題の一環としてもこのような微量なサンプルを分析するための開発研究を進めています。そしてこの研究グループは、文部科学省 科学研究費助成事業 新学術領域研究 (2018–2022)「宇宙観測検出器と量子ビームの出会い。新たな応用への架け橋。」のメンバーを中心として組織されています。


(文責:J-PARCセンター 広報セクション 青木 正)